History開園物語

1990年当時、北川村の人口は1,600人に満たず、65歳以上が3割を超えていました。村の衰退に歯止めをかけたい、特産のユズの消費拡大と働き手を村に留めようと村はワイナリー誘致計画をたて、実行しました。ところが1996年日本経済悪化の余波をうけ頓挫、あとに残されたのは開発中の土地。「土地を売却できるか」「フラワーガーデンはどうか」「公園?公園で人が呼べるのか」新たな展開を模索するしかありませんでした。

そんな中で、地域づくりアドバイザーのプロデュースによりワインからフランスへと構想が広がり、フランス文化、フランスは芸術の国、そして日本人にもなじみが深い印象派画家達の国、フランスのジヴェルニーにある画家クロード・モネの庭の話が浮かび上がりました。モネは浮世絵を愛する親日家として有名で、そして生前に日本人との交流もあったことがわかりました。

モノクロ写真:モネがアトリエでパレットを持って筆を選んでいるところ。睡蓮の作品に囲まれている

構想はまとまったものの、実現性が計れなかった村はジヴェルニーへ担当者を行かせることにしました。フランス「モネの庭」の責任者があってくれるかどうかもわからない、その体当り的な派遣を「見てこなければ話にならない」と英断したのは北川村助役 大寺正芳氏でした。

1996年秋、村から派遣された担当者たちはジヴェルニーの「モネの庭」にいました。
「今まで見てきた庭とは違う、画家モネだからこそ」
パレットのような花の庭、老年のモネが描き続けた睡蓮の咲く水の庭。そして、水の庭で出会ったのは太鼓橋、藤棚、柳に竹。モネの中の日本がありました。

写真:睡蓮の浮かぶ池にかかる太鼓橋と柳

担当者は当時をこう振り返っています。「植物に特に興味があるわけではなかった私がモネの庭の存在に深く感銘しました。どうしても自分の村に造らせてもらおう。方法は考えませんでした。ただ門をたたくのみだと思いました」

作戦のない熱意がときに奇跡をうみます。
北川村の熱意が、モネの庭関係者の理解を呼び、モネ財団、そしてフランス芸術アカデミーへつながっていくのです……。

「日本の小さな村の頑張りを大切にし、お話に協力いたしましょう」

大きな決断を当時のモネ財団理事長故ジェラルド・ヴァン・デル・ケンプ氏からいただきました。そのお話にいたるには、ジヴェルニー「モネの庭」責任者ジルベール・ヴァエ氏の並々ならぬご協力と応援をいただけたことが大きな力となりました。

派遣された担当者が何度も、何度も、ジヴェルニーの門を直接たたいた失礼をヴァエ氏が受け入れ、厳しくも優しい気持ちで話に耳を傾けてくれたことが始まりでした。「モネの庭」を別にしても、個人的な立場で植物を育てること、庭を造ることに対してのご指導をしてくださったのです。

1998年12月ヴァエ氏がはじめて現場指導のため、高知県北川村を訪れました。そして整備中の庭に対するアドバイスや講習、またその間、村の民家に宿泊し交流を深め、ますますのご理解をいただきました。「小高い丘から見渡せる太平洋、川、周りの自然もすばらしい。庭というものも限りなく時間を要し、歳月をかけて育てなければなりません。頑張りなさい」フランスが世界に誇る芸術、画家モネの庭、そしてその責任者であるヴァエ氏の人柄にふれることができた人達はあらためて庭造りを学ぶことになります。

1999年10月寺尾幸次村長が訪仏し、マルモッタン美術館館長、そしてフランス芸術アカデミーの終身書記長であるアルノー・ドートリヴ氏に面会し、思ってもいなかった大きな名称《モネの庭》と《マルモッタン》の名をいただけることとなったのです。

そうして北川村の強い思いと努力が認められ、2000年4月、高知県の小さな村に世界で2つ目の「モネの庭」が開園しました。

北川村へのご理解とご支援を頂いた皆さまに深く感謝しながら2020年4月、北川村「モネの庭」マルモッタンは開園20周年を迎えます。

これからも北川村「モネの庭」マルモッタンでモネが見た風景に出会ってください。

注:文章中の役職等に関しましては当時のものを記載しています